クロントイスラムについて

1,クロントイスラム

 以前この土地は、広大な河口の州で誰も住んでいませんでした。人々は湿地と泥沼の土地を有効に使おうと試みたりもしました。また一方では、海水が流れ込んで塩辛くなった土地は農作物を栽培するのにはふさわしくないため、アシやトーイなどの雑草をたくさん植えました。人々はトーイの葉を家族の食事を作るのにも利用しました。やがて、「クロントイ」と呼ばれ、トーイの葉はスラムの人々のシンボルとなりました。

 この広大な土地は、サパーン寺院横のプラカノン運河の河口からファランポン運河に至る地域まで広がっています。運河はアートナロン道路に沿ってグルァイナムタイにあるバンコク大学と、現在の通関局まで流れています。さらにファランポン駅周辺からオーキッド・シェラトンホテルがあるチャオプラヤー川まで続いています。地理的にはチャオプラヤー川の支流終点で、海に面した港湾となっております。

 仏暦2480年(1937年)、当時の首相コムナーコム・ルァンシンソン・クラームチャイは官報で、公用地1,700ライ(1ライは1,600平方メートル)をクロントイ港湾の建設のために利用すると発表し、2回目の1939年にはさらに300ライの増設といったように徐々に拡張していきました。また第2次世界大戦終結後、国連が日本の軍隊4分隊合計36,000人の捕虜を解放した際、クロントイで待機させ、日本に帰国させました。日本軍が進攻してきた時には、タイ人は非常に緊張しましたが、戦争に負けた時にはタイ人は日本軍に対して食料や果物を差し入れたり親切にし、同時に許しもしました。いずれにせよ、クロントイは首都の中心部から離れたところにあり、日中に砲弾や銃撃の音が聞こえることはありませんでした。

 やがて、港湾で労働する人たちのための住宅建設費がおり、1948年9月21日にはファラポン運河沿いに450世帯が住むようになりました。

2,「開発計画」の始まり

 仏歴2500年(1957年)は、タイの経済成長の発端となった年です。この時から世界銀行の協力を得るようになりました。首相の座に就いた陸軍元帥のピブーン・ソンクラームは「経済開発」に着手するにあたって世界銀行の手を借りました。1961年から1966年の間に第一次タイ社会経済開発計画が策定され、その後5年ごとに引き継がれています。この間、タイの経済は急激に成長を遂げたものの、1997年、最悪な経済危機に直面しました。そのため、国際通貨基金(IMF)をはじめとする援助機関から非常に多額な借金をすることになったのです。

 経済危機に突入する直前まで、タイはまさに繁栄の途上にありました。繁栄している時には、海上の大きな波が押し寄せるように、クロントイ港に人々が出稼ぎにやってきて、スラムを形成しました。300ライに及ぶクロントイ地域に押し寄せてきたのは、大部分が干ばつなどで村では食べていけなくなった農民たちでした。港では身体がくたくたになる荷役の仕事であり、日雇いの仕事であっても、農業する人よりもずっと収入がよかったのです。お金を家に送金する人、スラム内に家を建てて家族を呼び寄せる人もいました。こうして出来上がった人口密集地帯がやがて「クロントイ・スラム」と呼ばれるようになったのです。

 最初は数十世帯であったのが、徐々に増えていきました。こうして父親から子に継がれ、1991年にはその数が6,000世帯以上に及んできました。スラムでの生活環境は、確実さと安定性にかけるのが特徴です。日々働く以外には他の世界のことを知る由もなく、世間の人々もクロントイ・スラムに関心を寄せませんでした。

 仏歴2500年(1957年)、スラムの全域をクロントイ市場とするために、現在のクロントイ・マーケットにある場所で生活していた住民たちの立ち退きが始まりました。スラム住民たちは第6地区と第12地区に移り住みました。この地区はやはり住宅公団クロントイ港湾局の土地でした。仏歴2502年(1959年)にドクター サック・パースックニランとタマサート大学関係者によって、初めて税関局周辺のスラム住民の生活状況の調査が行われました。住宅公団がこしらえたフラット1から10までの公団住宅は、スラム住民とファランポン運河沿いの港湾局で働く職員の宿舎にあてられました。そこは高速道路に隣接した、大気汚染がとてもひどい地域でした。

3,山積みするスラム問題との闘い

なぜ、スラムが発生したのか、少なくとも4つの大きな原因があります。

1、 地方の村に住む農民たちは、厳しい環境で農業を営まなければならず、干ばつなどの際、解決に必要な知識を持ち合わせていないのが現状である。そのため出稼ぎを余儀なくされ、教育を受けてこなかったために低賃金労働者として使用される。
2、 首都圏では工業化に必要な港湾の拡張整備が始まり、労働力を必要としていた。
3、 こうした状況にもかかわらず、労働者を受け入れる住宅はおざなりにされ、粗末で劣悪な小規模住居が無秩序に急増した。
4、 人々が超過密状態で住まざるを得ないため、家がいこいや家族団欒の場にならず、さまざまな社会問題を引き起こすことになった。

 こうした中で、仏暦2511年(1968年)頃、ウンソムタム家(父はヌイパオ、母はトーンスック)のプラコーン、プラティープ姉妹がスラムの子どもたちの教育のために「1日1バーツ学校」の塾を開きました。これが都市のスラムにおける社会開発の発端となりました。スラムの住人の1日の始まりは、朝、子どもたちを1バーツ学校に連れて来て、港の荷役仕事に出かけ、夜、仕事から帰ってきて我が子を引き取り来るといった状況になりした。大人たちも働きに出られるチャンスを得られ、子どもたちも読み書きができるようになりました。

 やがて、健康面や栄養面、さらに人権擁護への意識の高まりから、スラム住民はこの学校(塾)を公立化すること望むようになりました。塾を始めてから10年後、フリージャーナリストだったウドム・イェンルディ氏は、社会福祉活動に貢献しているプラティープ先生をフィリピンのマグサイサイ財団に推薦しました。そして仏暦2521年(1978年)にプラティープ先生はラモン・マグサイサイ賞を受賞したのです。

 それに先立ち2519年(1976年)、スラムにある「1日1バーツ学校」はバンコク都に移管され公立化されました。当時の生徒は500人いました。その名も「チュムチョン・ムーバン・パタナー(パタナー共同体)小学校」と名づけられました。子供たちの問題以外にもクロントイには立ち退き問題が解決されずに残っていました。住民たちはヌー・ケマー叔母さんと共にプラティープ先生を、住宅公団との交渉のための代表として選出し、人間として最低限度必要な居住地区の確保に取り組みました。

 しかし、世間ではこうしたスラムの人々を「ただ要求をつきつけて闘うだけ」とみて、なぜ立ち退きで苦しまねばならないのかを理解しようとしませんでした。タイ社会全体を見て、居住問題で行き場を失っている人々の背景を考えようとする視点がなかったのです。

 貧困問題は、正しくその原因を見極めて解決することが必要です。その問題が正しく解決されれば再び同じように起こってくるといった心配はいらないのです。交渉の中で人々は様々なことを学んで団結心を持つようになり、自発的な発言や交渉で非常に良い経験をつむことになりました。スラムの問題が起きたときには、住民たちが直接、政府側と交渉するといったことも少なくありません。

4,活動の成果と課題

 仏暦2521年(1978年)、プラティープ先生はフィリピンのラモン・マグサイサイ賞(社会福祉部門)を受賞しました。タイ人としては8人目の受賞者でした。この賞金402,500バーツ(2万米ドル)を基金して、財団法人として登録することにしました。4人(クリアンサック・チャマナン将軍、プラティープ・ウンソンタム女史、ウドム・イエンルディ氏、デーンチャイ・プッグガパン氏)が発起人となり、財団の名称を「ドゥアン・プラティープ(希望のともしび)財団」としました。当時、プラティープ先生やリーダーたちは、世間の一部から「共産主義者」と非難されていましたが、首相であるクリアンサック将軍を財団の理事長(仏暦2522年〜仏暦2532年)に迎えたおかげで、様々な活動が円滑に進むようになりました。そして教育里親制度、幼稚園運営、芸術振興プログラム、給食プログラム、麻薬撲滅プロジェクト、ニューライフプロジェクト(「生き直しの学校」建設)、エイズ予防プロジェクト、生活協同組合、お話キャラバンなどの活動にに取り組みました。その後、2代目の理事長には警察庁官のパオ・サーラシン氏(仏暦2533年〜仏暦2534年)が任命され、3代目としてスメット・チュムサイナアユタヤー博士(仏暦2535年〜現在)が任命され20年を迎えました。

 スラムの立ち退きが問題になった時、プラティープ財団はスラムの人々が将来、どんな問題が起きても自分たちの力で取り組んでいけるように住民組織を結束させました。彼らの活動は成功し、やがて生活改善の目的のために、権力を恐れず物事が言える住民代表が現れました。「もし住民委員会が本気で活動に取り組むのなら、住民たちも協力し、きっと成功をおさめるでしょう。しかし、私たちは未来を担うこどもたちのために頑張っていることを忘れてはいけません。付和雷同したり、人に頼りすぎないようにして下さい」とプラティープ先生は助言してきました。

 そうした中で、ソンポーン・パップイ氏は「クロントイ・スラム住民連帯委員会」を結成しました。貧しい人々のための組織には、クロントイ地域24のスラム地区から代表が集まり、また、クロントイ地区以外からも関心が寄せられました。

 当時、スラムに居住する住民は、一般の人々が受ける公共サービスをまったく受けられない状態に置かれていました。例えば、出生証明書が無かったり、教育が極端に低い子どもが大勢いました。スラムでは麻薬の問題も広まっています。麻薬は家族を崩壊させ、子どもや青年たちの人生を破壊させていくのです。仏暦2529−2530年(1986-87年)にかけて、クロントイで麻薬罪(特にヘロイン)で捕まった状況は次の通りです。

麻薬所持者 麻薬密売人
発生 逮捕 発生 逮捕
43 43 3 3
31 31 2 2
49 49 2 2
53 53 5 6
32 32 3 3
24 24 7 7
27 27 - -
34 34 3 3
22 22 1 1
10 27 27 4 4
11 58 58 8 9
12 37 37 11 12
1987年1月 19 19 7 8
2月 50 50 9 9

 さらに麻薬患者の血液検査をパトムタニ県のタンヤーラック病院で行った結果、エイズ感染者が多かったため、エイズ予防プロジェクトを始めることになりました。プラティープ財団では当初、16人の麻薬患者に対してエイズに関する情報を提供し、患者やその家族、スラムの住民たちに対して啓蒙運動を試みました。厚生省から財団に予算が下りて、活動資金ができ、エイズ患者がその家族、スラムの住民たちとともに生活することを浸透させていきました。麻薬撲滅委員会も発足しました。仏暦2539年(1996年)9月20日付けのディリ−ニュース紙はちょうど「青年の日」にあたる日にプラティープ先生とのインタビュー記事を掲載しました。この中で「クロントイスラムの麻薬問題は深刻なもので、特に青年たちにその影響が出てきています。」という指摘に対して一部の住民が不満を抱き、9月21日付けのカーウソット紙には「プラティープ先生のインタビューは、スラムの印象を悪くし、真実の情報ではない。クロントイスラムは決して悲惨な状況ではなく、麻薬など蔓延していない。プラティープ先生に釈明を要求する」との反論記事が出ました。ここ10年間、大手をふってきた麻薬密売人や賭博業者の声を反映したものでしたが、新聞に公表されたことにより、この問題への関心が深まっていきました。

 この出来事がきっかけとなって、1992年に起こった化学薬品爆発事故の後遺症で悩む住民たちに対する救済や生活改善にも取り組むようになりました。また、居住開発財団の説明によると、仏暦2541年(1998年)中にバンコク周辺の少なくとも38ヶ所のスラムは立ち退きを迫られているのが現状であり、これからも居住環境の改善に取り組んでいく必要があります。

5、忘れられていたもの・・・回復期

 山積みする問題を減少させ、解決していくためには、自ら行動しなければなりません。クロントイスラムの住民たちは、これまで協力し合って築いてきた共同体を大切にして、地域改善、生活向上を正しく進めていく必要があります。スラム住民が互いに助け合うといった伝統を忘れずに、親子や兄弟関係のような「家族愛」をもってお互いに努力していく。家族の皆がそれぞれ責任を持つことが大切です。

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