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この広大な土地は、サパーン寺院横のプラカノン運河の河口からファランポン運河に至る地域まで広がっています。運河はアートナロン道路に沿ってグルァイナムタイにあるバンコク大学と、現在の通関局まで流れています。さらにファランポン駅周辺からオーキッド・シェラトンホテルがあるチャオプラヤー川まで続いています。地理的にはチャオプラヤー川の支流終点で、海に面した港湾となっております。 仏暦2480年(1937年)、当時の首相コムナーコム・ルァンシンソン・クラームチャイは官報で、公用地1,700ライ(1ライは1,600平方メートル)をクロントイ港湾の建設のために利用すると発表し、2回目の1939年にはさらに300ライの増設といったように徐々に拡張していきました。また第2次世界大戦終結後、国連が日本の軍隊4分隊合計36,000人の捕虜を解放した際、クロントイで待機させ、日本に帰国させました。日本軍が進攻してきた時には、タイ人は非常に緊張しましたが、戦争に負けた時にはタイ人は日本軍に対して食料や果物を差し入れたり親切にし、同時に許しもしました。いずれにせよ、クロントイは首都の中心部から離れたところにあり、日中に砲弾や銃撃の音が聞こえることはありませんでした。 やがて、港湾で労働する人たちのための住宅建設費がおり、1948年9月21日にはファラポン運河沿いに450世帯が住むようになりました。
経済危機に突入する直前まで、タイはまさに繁栄の途上にありました。繁栄している時には、海上の大きな波が押し寄せるように、クロントイ港に人々が出稼ぎにやってきて、スラムを形成しました。300ライに及ぶクロントイ地域に押し寄せてきたのは、大部分が干ばつなどで村では食べていけなくなった農民たちでした。港では身体がくたくたになる荷役の仕事であり、日雇いの仕事であっても、農業する人よりもずっと収入がよかったのです。お金を家に送金する人、スラム内に家を建てて家族を呼び寄せる人もいました。こうして出来上がった人口密集地帯がやがて「クロントイ・スラム」と呼ばれるようになったのです。 最初は数十世帯であったのが、徐々に増えていきました。こうして父親から子に継がれ、1991年にはその数が6,000世帯以上に及んできました。スラムでの生活環境は、確実さと安定性にかけるのが特徴です。日々働く以外には他の世界のことを知る由もなく、世間の人々もクロントイ・スラムに関心を寄せませんでした。 仏歴2500年(1957年)、スラムの全域をクロントイ市場とするために、現在のクロントイ・マーケットにある場所で生活していた住民たちの立ち退きが始まりました。スラム住民たちは第6地区と第12地区に移り住みました。この地区はやはり住宅公団クロントイ港湾局の土地でした。仏歴2502年(1959年)にドクター サック・パースックニランとタマサート大学関係者によって、初めて税関局周辺のスラム住民の生活状況の調査が行われました。住宅公団がこしらえたフラット1から10までの公団住宅は、スラム住民とファランポン運河沿いの港湾局で働く職員の宿舎にあてられました。そこは高速道路に隣接した、大気汚染がとてもひどい地域でした。
なぜ、スラムが発生したのか、少なくとも4つの大きな原因があります。
やがて、健康面や栄養面、さらに人権擁護への意識の高まりから、スラム住民はこの学校(塾)を公立化すること望むようになりました。塾を始めてから10年後、フリージャーナリストだったウドム・イェンルディ氏は、社会福祉活動に貢献しているプラティープ先生をフィリピンのマグサイサイ財団に推薦しました。そして仏暦2521年(1978年)にプラティープ先生はラモン・マグサイサイ賞を受賞したのです。
しかし、世間ではこうしたスラムの人々を「ただ要求をつきつけて闘うだけ」とみて、なぜ立ち退きで苦しまねばならないのかを理解しようとしませんでした。タイ社会全体を見て、居住問題で行き場を失っている人々の背景を考えようとする視点がなかったのです。 貧困問題は、正しくその原因を見極めて解決することが必要です。その問題が正しく解決されれば再び同じように起こってくるといった心配はいらないのです。交渉の中で人々は様々なことを学んで団結心を持つようになり、自発的な発言や交渉で非常に良い経験をつむことになりました。スラムの問題が起きたときには、住民たちが直接、政府側と交渉するといったことも少なくありません。
スラムの立ち退きが問題になった時、プラティープ財団はスラムの人々が将来、どんな問題が起きても自分たちの力で取り組んでいけるように住民組織を結束させました。彼らの活動は成功し、やがて生活改善の目的のために、権力を恐れず物事が言える住民代表が現れました。「もし住民委員会が本気で活動に取り組むのなら、住民たちも協力し、きっと成功をおさめるでしょう。しかし、私たちは未来を担うこどもたちのために頑張っていることを忘れてはいけません。付和雷同したり、人に頼りすぎないようにして下さい」とプラティープ先生は助言してきました。 そうした中で、ソンポーン・パップイ氏は「クロントイ・スラム住民連帯委員会」を結成しました。貧しい人々のための組織には、クロントイ地域24のスラム地区から代表が集まり、また、クロントイ地区以外からも関心が寄せられました。 当時、スラムに居住する住民は、一般の人々が受ける公共サービスをまったく受けられない状態に置かれていました。例えば、出生証明書が無かったり、教育が極端に低い子どもが大勢いました。スラムでは麻薬の問題も広まっています。麻薬は家族を崩壊させ、子どもや青年たちの人生を破壊させていくのです。仏暦2529−2530年(1986-87年)にかけて、クロントイで麻薬罪(特にヘロイン)で捕まった状況は次の通りです。
さらに麻薬患者の血液検査をパトムタニ県のタンヤーラック病院で行った結果、エイズ感染者が多かったため、エイズ予防プロジェクトを始めることになりました。プラティープ財団では当初、16人の麻薬患者に対してエイズに関する情報を提供し、患者やその家族、スラムの住民たちに対して啓蒙運動を試みました。厚生省から財団に予算が下りて、活動資金ができ、エイズ患者がその家族、スラムの住民たちとともに生活することを浸透させていきました。麻薬撲滅委員会も発足しました。仏暦2539年(1996年)9月20日付けのディリ−ニュース紙はちょうど「青年の日」にあたる日にプラティープ先生とのインタビュー記事を掲載しました。この中で「クロントイスラムの麻薬問題は深刻なもので、特に青年たちにその影響が出てきています。」という指摘に対して一部の住民が不満を抱き、9月21日付けのカーウソット紙には「プラティープ先生のインタビューは、スラムの印象を悪くし、真実の情報ではない。クロントイスラムは決して悲惨な状況ではなく、麻薬など蔓延していない。プラティープ先生に釈明を要求する」との反論記事が出ました。ここ10年間、大手をふってきた麻薬密売人や賭博業者の声を反映したものでしたが、新聞に公表されたことにより、この問題への関心が深まっていきました。 この出来事がきっかけとなって、1992年に起こった化学薬品爆発事故の後遺症で悩む住民たちに対する救済や生活改善にも取り組むようになりました。また、居住開発財団の説明によると、仏暦2541年(1998年)中にバンコク周辺の少なくとも38ヶ所のスラムは立ち退きを迫られているのが現状であり、これからも居住環境の改善に取り組んでいく必要があります。
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